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プロフィール

 
  2019/04/14

沼翔輝のプロフール

理学療法士/ブロガー / かまぼこ職人/介護予防教室講師/バルシューレ指導者/セミナー運営


理学療法士の仕事を始めたきっかけ

今の仕事をするに至った経緯からお話できたらと思います!良かったらお付き合いいただけたら嬉しいです。

これまでの仕事の話

僕は、商業高校卒業後、特にやりたいことも夢もなかったので地元のかまぼこ工場に就職しました。

都内の出身の人は、えっ!?かまぼこ?すり身臭そう。。と思うかもしれませんが、僕の地元では水産加工業が主の港町(宮城県石巻市)だったので工場に就職とかは結構普通なのです。

何でかまぼこ工場?というと当時は勉強とかクソ喰らえー!!と思うほど勉強嫌いだったのでとりあえず学校に届いてた求人表を片端から並べて給料の高いとこに面接しに行って合格して就職しました。

そんな適当な理由で就職したのがかまぼこ工場だったのです。

かまぼこ職人時代

かまぼこ工場時代は夜勤というか超早朝出勤(AM2時からAM11時)だったので朝起きるのがすごく大変で、もう夜の8時まで起きてたらだいぶ夜更かししちゃったな。とか19才くらいのころ思っていました。(逆に超健康やん!)

工場の業務も正月とかはもう最悪でいわゆる繁忙期と言われる超絶忙しい時期があると残業が100時間くらいあるような職場でした。工場にはかまぼこ職人が何人かいて、職人が手作りで作らなきゃいけなかったので代わりがいないというのもあって超ブラックな繁忙期を職人みんなで乗り越える気合の入った地元職人の世界だったのです。

そんなブラックな工場に居ながらも高校卒業して丸々4年間くらい真面目に働いていました。(遅刻は1回だけ3時間くらい寝坊しちゃった笑)

当時のモチベーションは仕事の中では立派なかまぼこ職人になろうと包丁で仕事終わりにナルト作りの練習したり、すり身の団子を手で(数グラム単位)取って作ったり、そんな技術面を向上させることにやりがいを感じていたことと、仕事が遅くても昼過ぎくらいには終わってたので、普通の社会人より早く明るい時間にドライブしたり釣りに行ったり遊んだり、それなりにプライベートが充実してればいいかなー。みたいな感じで特に自分のやっていることに疑問を抱かずに生きていました。

そんなこんなで3年半くらい仕事していてある日ふと、何でこんな仕事してんだろ?て思っちゃったんですよね。

きっかけはある年の12月から正月までの期間に休みが月に4日しかなくて20日連勤して残業120時間みたいな繁忙期があって、さすがに疲れて黙ってても涙出るくらいの時期があって、かまぼこ練りながら『あー美味しく作っても誰にも感謝されてないから作ってる意味ないんじゃね?』とか考えちゃう時期がありました。

僕らは工場で人の顔を見ないでただひた向きにかまぼこを練る職人で、それを売っている売店の人は作ってないのにお客さんから「ありがとう」とか感謝されて買っていってもらえる。そんな流れに疑問を感じていました。

そんなこんなで突如辞めたい時期に入って、数ヶ月くらい辞めたい辞めたいとずっと思っていました。

そんなある日、事件が起きました。僕の人生にとって大きな転機となった出来事が。

東日本大震災の被災者となる

2011年3月11日。いつもと変わらずかまぼこ工場で午後の追加製造をしていた昼下がり。急に大きな揺れと地響きで工場全体が揺れ、工場の機械が大きな音を立てて警報が鳴り響く。地震だ。それも今まで経験したことのない大きな地震。

立ち上がったらすぐ転びそうな揺れに耐えながら先輩がいる部屋に駆け込み、大丈夫ですか?といったら先輩はパートのおばちゃんと抱き合いながら腰を抜かしていた。周りの社員も全員壁にしがみついて動けそうもなかった。僕はなぜか動けたので無我夢中で工場で使っている火やガスの元栓を走って止めに行った。当時の記憶は曖昧だけど本当に必死だった。

少し揺れが収まったのを見計らって社員全員を工場の2階へ避難させた。僕の工場は海から1キロないくらいの海に面した工場だったので津波が来ることを警戒しての判断だった。

工場の2階へ避難してから10分くらい経過した頃、ベランダで外を見ていた僕の足元に少しだけ大きな樽をひっくり返したくらいの水が流れてきた。心の中でこのくらいの津波だったら大丈夫だな。と思った次の瞬間。

ドドドォォォォォオオーーーーッッッッンンンンンン!!!

という音を立て、家や車を巻き込みながら3mくらいの津波が向かって来たのだ。

津波は僕の足元まで達してたので相当な高さだったと思う。間一髪、僕や工場の仲間は一人も津波に流されず無事だった。

地震からの数分間、少し判断が遅かったらみんな犠牲になっていたかと思うと本当に恐ろしかった。

その後、2日間海にのみ追い込まれた工場に取り残され、3日目に泳いで岸まで向かい脱出した。どこからか流れついた転覆ボートを利用して残った社員を船に乗せて工場から500mくらい先にある岸まで木の枝で漕いで全員無事に脱出させた。

本当に社員全員無事でよかったと思い、安堵して歩いて家に向かったら家の周囲は津波でのまれ全壊状態だった。

僕はそんな状態でも自分の家は大丈夫だと内心信じて家に辿りついたが、家は形はあったものの壁は崩壊し津波は二階の天井まで達していた。僕の友達は家の基礎のコンクリートしか残っていなかった。

唯一の幸いは家族が皆無事に近くの学校に避難して無事だったことだった。

そんなこんなで一夜にして職場も家も車も失った僕は数日間、学校の体育館で寝泊まりしながら色んなことを考えた。

まずは衣食住をなんとかすること、仕事のこと、震災で被害にあった友達や周りの人のこと。。。

あまりクヨクヨするのが好きじゃない僕は数日後には家の復興や周囲の人の手伝いに全力で走り回った。風呂も電気も食事もままならない状態だったけど不思議と体は動いた。人間は強いんだなと思った。

復興に明け暮れ、6月くらいにようやく仕事のことを考えるようになった。

そもそも震災の少し前から辞めようと思っていたし、工場も全壊していたので復興するという噂は聞いていたけど、僕は転職の道を進もうと考えていた。

さて、何をしようかなーっと考えていた時に、僕はマッサージが好きだったなと思い出した。

親の肩を揉んだりするのが昔から好きだったのだ。よし!起業してマッサージ屋をやろう!という安易な考えから、資格を調べていたら欲が出て、せっかくだから国家資格とかとったらどこでも働けるんじゃない?と考えた。工場が津波で流されてから、あんなに頑張ったのに場所がなくなったらそこで終わりなんだということを身に染みて感じていたし、当時付き合っていた彼女が看護師だったので福祉の世界にも興味があってよく話を聞いていたからだ。マッサージ師で国家資格と調べたら柔道整復師、あん摩マッサージ指圧師、理学療法士、作業療法士とかが出てきて、アホな僕は全部知らなかったので当時の彼女にどれがいい?と聞いたら理学療法士はリハビリの仕事でいい仕事だよ!と教えてくれた。僕は迷いもせずにじゃ理学療法士になる!!

と即決してしまったのだ。笑 そしてその日の夜から壊れた実家の二階の無事だったスペースで理学療法士の資料を取り寄せて片端から見た。ちょうど、震災の被災者に対する補助金がある学校が千葉県にあったので僕はその学校に決めて1年後に上京する決意をしたのだった。

ホームヘルパーの資格を取った時期

理学療法士になる決意をした時期から2ヶ月くらい、失業手当の期間として空白の時間があったので僕は何もしないのも嫌だったので家がないのにホームヘルパーの資格を取りに職業支援所に通うことにした。そこには震災の被災者が20人くらいいて、みんなで毎日介護について学ぶ講習だった。それをクリアするとホームヘルパーの資格を得ることが出来る仕組みだったのだ。僕は医療の道に進むと決めていたので割と真面目に介護という職を学んだ。それなりに楽しくて充実した日々で、そこの仲間とも大変な時期だったということもあってか、終了する頃にはすごく深い絆で仲良くなっていた。本当に楽しかったなぁ

NPOとして働く

介護の講習が終わりに近づいた頃、クラスの人が1通の求人を持ってきてくれた。来春から学校に通う予定だった僕は3月下旬までの短期の職を探していて、ちょうどその求人が当てはまっていたから持ってきてくれたのだという。NPO法人の活動内容は『被災者への生活援助事業』だった。僕はその時まで学校の体育館や壊れた家とを行ったり来たりしながら、被災者に対して何かしてあげたいという気持ちがあってそのNPOに即決で入ることにした。僕が入った時は被災者への支援という大きな目標はあったけど、事業としては具体的な内容は決まってなく、ただひたすらに物資を配ったり炊き出しをしたりしながら被災者への支援を行なっていた。入ってから数ヶ月経つと僕はそこの副室長へ任命され本格的に被災者への支援の方法や対応の仕方などを学びながら組織を作っていく役目になっていた。

高校卒業してアホなただのかまぼこ職人だった僕は最初何もできなかったけど持ち前のフットワークで何とかかんとか事業を形にしていって、合計3000世帯くらいの人々への支援を達成することができた。

震災の復興事業ということもあって当時関わった人は有名人や社長とか教授とか、色々な人と関わることが出来た。特に印象に残っているのが、当時、へなちょこだった僕に問題解決の仕方を教えに京都大学にまで連れて行ってくれ、教鞭に立ってくれた教授には本当に感謝しています。おかげで考え方の基盤が出来ました。

理学療法士となる

そんなこんな、大きな経験をした僕は勉強は苦手だったけど頭のいい仲間達に支えられて、すんなり理学療法士になることが出来た。理学療法士になるきっかけはあっさりだったけど、それまで震災後から経験してきたことが強い想いとなって学生時代はなんの迷いもなく勉強に励むことができて、楽しい学校生活を送ることが出来た。今思えば、かまぼこ職人時代に『こんな俺でも勉強して国家試験取れたら誰でも出来ることを証明出来るんじゃね?』と考えて意気揚々と未来の自分に期待して突き進んでいました。人間やろうと思えば結構何でもいけちゃうんだね。

今後の展望

理学療法士として病院で仕事をしている中で、充実している反面、僕にはなんだかもっと何かやれるような気がしていてソワソワしていました。

それが何なのか分からずに自分で考えても答えが出ませんでした。

きっとNPOで仕事をしていた時に工場から一気に解放されて人と関わる仕事になり、自分で組織を組み立てたり、世の中の役に立っているという実感が湧く仕事に魅了されたからだと思います。

実は理学療法士になってから1年で最初の病院を辞めて、理学療法士の先輩と起業をしようとパーソナルジムを経営した時期がありました。1年で起業とか頭がイカれちゃってたのかなと今思えば考えれますが、当時は出来る!!と思って起業した結果、失敗しました。笑 最初から従業員を雇いすぎたのと集客に失敗したのです。失敗して病院に出戻りした時は落ち込みましたが、そもそも、僕は何か組織の中で問題を見つけ出したり、それを整理して解決するいわゆるPDCAサイクルみたいな作業は以前は好きだったけど、その先にある、もっと創造的な仕事がしたいなーっとずっと思っていたんですよね。

デザイナーとかクリエイティブなビジョンを形にする仕事を。

僕の専門は数年間医療従事者として社会に関わってきたので医療目線で考えると、福祉や医療という世界はそういうデザイン性や新しいモノゴトが取り入れづらい環境にはあるとすごく感じます。介護福祉用品や介護の仕方や医療の見せ方のデザインはきっと人々の役に立つことなんじゃないかなと考えています。

いくつか頭の中にはビジョンがあってそれを達成するためにこのブログを始めました。

カキログという柿沼から取った僕の今持っている医療スキルや倫理観を発信し、僕みたいにビジョンを形にしていきたい人の役に立てるようなブログに育てていければ幸いです。

どうぞ末長くよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

柿沼のちょっとした情報

■1988年4月22日生まれ。細身、最近太ってきた。

■宮城県石巻市出身、23才から東京よりの千葉県民

■好きなこと:釣りとアウトドア、スノーボードが好き

■性格:まがったことが嫌い、歌を演劇っぽく歌いたがる、ふざけている、怪しい目で人間観察をしている

■得意料理:オムライス、鍋、カレー、キャベツの千切り

■好きな漫画:ドラゴンボール、ONE PIECE、HUNTER×HUNTER、REIVE、キングダム、スラムダンク、

■苦手なモノ:偉ぶっっている人、半端な上司、気の効かない人

■好きな言葉:やる気出る、向上心、幸せ、最高、イエーイ

■好きな音楽:HIPHOP(KREVA)、R&B、ミスチル

 

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